まだまだ、修行の身

 お釈迦さまが坐禅での修行に精進され、悟りを開かれたことに由来して、曹洞宗や臨済宗などのいわゆる禅宗では、教えの基本は坐禅にあります。それは、世の中のあらゆる物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えます。そして坐する事で、身体の安定を保ち、心を集中させ、身・息・心の調和をはかります。そして、只管打坐とは、ただひたすらに坐ることです。過去のブログでも書いたことがありますが、難しい話です。目的を達成する手段としての坐禅ではなく、坐禅自体が「仏の姿」で、「悟りの姿」と考えられています。

 道元禅師はこの基本となる坐禅だけではなく、あらゆる日常生活の掃除や食事などの行為に坐禅と同じ価値があって、修行であると教えられています。修行が日常生活から離れた特別なことではなく、毎日の生活の中の行為のひとつひとつが坐禅と同じ心で接し、その実践そのものがが修行と説かれています。修行の末に悟りがあるのではなく、悟りがあるからこそ、あらゆる行為が修行なのだと…。つまり、何かを悟るために修行をするのではなく、修行そのものが悟りであるという考え方です。

 私も人間ですから、日々…他人の言動で悩んだり、迷ったりして、またその逆もあります。特に私の言動は人を悩ますそうです。よく、迷いと悟りは表裏一体と聞きます。悩み、迷うから、何かを悟る…それが日々の生活の中で常にあって、それが修行の場で私自身はいつも…いつまでも修行の身だと…。まぁ、こうして考えると少し楽になります…。