Monthly Archives: 8月 2017

ぞくぞく・麺処⑭

 写真のそば屋さんは箕面市にあります。川西市や豊中市、箕面市、伊丹市など北摂と言われる地域にはご縁が薄いので、どこまでが大阪府でどこからが兵庫県なのかピンときません。(9月29日の続・山岳鉄道より先にこのブログを書いて予約していたので、あんな文章になってしまいました。)川西池田なる駅も京都人からすると山科大津みたいな感じで、ユニークな駅だと思いますね。このお店は阪急箕面線の牧落駅下車すぐのところにあります。あまりい行かない地域ですが、お寺参りの帰りに寄りました。地元に愛されているお蕎麦屋さんて感じでバリエーションも多く、蕎麦通の人が喜びそうです。今日で8月も終わりです。明日から2学期の学生さんもいらっしゃると思いますが、この時期は台風の季節でもありますので、紙製品業界も穏やかな五穀豊穣を願うばかりです。

映画『関ヶ原』

 先日の日曜日に映画『関ヶ原』を奥さんと見に行ってきました。2014年のNHK大河ドラマの「軍師官兵衛」で好演した岡田准一のイメージが残っているので、公開前のCMで見た…石田三成には少し違和感がありましたが、実際に本編を見てみると、なかなかの完成度で役柄はピッタリでした。原田監督のコメントにあった様に主演の岡田准一が石田三成を演じられる年齢になるまで、ずっと待っていた甲斐があったと思います。また、時代劇初挑戦の有村架純の女忍者も深みとロマンスがあって良かったです。豊臣から徳川への政権交代は、後の方広寺の梵鐘事件からしても、徳川家の横やりや言いがかりというか謀略以外の何物でもない感じですが、関ヶ原へ引っ張り出された三成は秀吉の朝鮮出兵が仇になり、家康に上手く利用されましたね。こうした忠義と打算、裏切りに翻弄されるのは何も日本だけの事でもないでしょうが、中国や朝鮮の歴史をみても時代劇のドラマ性の本質を感じます。ところで関ヶ原周辺はよく通りますが、古戦場は行った事がありませんので、何かの機会に立ち寄ってみたいと思います。

 また、2020年はあの「立花宗茂」が柳川に再封されて400年の節目の年で、九州が続きますが、福岡県柳川市は立花宗茂・誾千代でNHK大河ドラマの招致を目指しているそうなので、是非とも実現して頂きたいですね。関ヶ原の戦いで改易された後、大名として復帰した武将はいても、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人なのです…。正に武勇伝という言葉はこの人の為にある様なものです。最近はCGの技術も発達しているので、きちんと文禄の役、慶長の役も2~3回で時間はとって、完成度の高い物語を期待します。

続・山岳鉄道

  ここも大阪府か兵庫県かはっきりしない場所ですが、ギリギリ兵庫県で電車も数分走ると大阪府になります。県境の山坂道で急勾配と急曲線が連なる山岳鉄道の趣です。前から知っていたのですが、奈良から中途半端に遠い北摂へはなかなか足を運べていなかったのですが、天気予報の晴れマークに釣られてやってきました。撮影ポイントは能勢電鉄妙見線の笹部と光風台間の勾配区間で、笹部から歩くと坂道を20分と聞いていましたので、大人の撮り鉄に徹すべく駅前にタクシー乗り場のある畦野駅から安易に2メーターを乗車しました。撮影していると笹部駅から大きなリックを背負った若者が汗だくになって歩いての登ってきました。関東から遠征の鉄チャンで、18切符を利用し昨夜は天王寺近くの一泊1500円の安宿に泊まったそうです。私も若い頃はユースの素泊まりや、駅の待合室で一夜を明かした経験がありますが、学生時代の特権ですね。最近は宿泊代をもっと節約する人は関空へ行くとか…。18切符利用だと別に交通費もかからず、エアコンもきいていて快適だそうです。

忱・課長の壁④~No Play No Follow~

 若輩者と言われた頃から、いくつも失敗を経験して、辛酸を舐め、そうした事を肥やしに成長し、課長になったのは“No Play NoError”では進歩も改善もないと信じてきたからです。しかし、その数々の失敗や失態の影に誰かのフォローがあったのでしょう。心優しき先輩や上司、周囲の応援無くしては問題解決には至らなかったと思います。ですから、行動もしないから、フォローもしないという姿勢ではマネージャーは務まりません。できなかった事の言い訳を「現状で精一杯!」なんて、言っていたらマネージャー失格です。上司が信頼される組織を作っていれば、個人のミスは周囲がきちんとフォローしてくれるでしょうし、リカバリーも早い筈です。こうしたフォローは感謝の気持ちを生みます。感謝ができる環境は活性化し、信頼関係の中で、自然とフォローの体制が生れます。上司のフォローは部下が見ています。そのフォローを見て部下もまた成長し、フォローの出来る立派な上司になっていくのです。

八尾のハンバーグ

 大阪市営地下鉄谷町線の終点の八尾南駅から東へ約1㌔、15分程歩くと八尾空港の南にこのお店はあります。時々通る道路沿いで、以前より美味しいハンバーグレストランと聞いていたので、一度寄ってみたいと思っていましたが、先日実現しました。グルメサイトの評点はそんなに高くないのですが、店内は常連客や予約客で賑わっていました。目の前で焼いてくれる鉄板焼きのお店ですから、ステーキメニューもたくさんありました。写真はスタンダードなランチメニューで1,000円でおつりがきます。目玉焼きをトッピングメニューで頼むと、ソーセージのサービスがありました。お味はジューシーでふんわり、ふっくらした食感が美味です。

韓国時代劇通信②

 先週から『師任堂(サイムダン)、色の日記』を見ています。あの、「宮廷女官チャングムの誓い」で韓流ドラマに疾風を起こした女優イ・ヨンエが13年ぶりの主演しています。「客主」の後番組は「宮廷女官チャングムの誓い」の再放送なんですが、これを見ると、一週間に13話も韓国時代劇を見る事になるので、チャングムは断念しました。このサイムダンは一言では表現できないストーリーで現代と過去を行ったり来たりする面白い展開です。過去は約500年前で朝鮮王11代中宗の時代の話で、やはり政治は混乱していました。主人公のサイムダンは実在の女流書画家で韓国紙幣の肖像画にも使われています。韓流時代劇は私の中ではちょっとしたブームです。

霄壤

 漢字検定も大江戸検定もトライしないままになっていますが、今年は5つ目の検定にチャレンジすべく…ある作戦があります。さて、難しい漢字ですが、「霄壤」は“しょうじょう”と読みます。意味は天と地…また、天と地ほどの差がある事だとかで、奥深さを感じます。写真はショウリョウバッタですが、ショウジョウバッタとも言います。前者は8月の精霊祭の旧盆の頃になると姿を見せ、精霊流しの精霊船に似ていることが由来です。後者はオスとメスの差があり、別の名前でも良いくらいなで「天と地ほども違う…」という意味の「霄壤」で、ショウジョウバッタと呼ばれています。「霄」は天、「壤」は地の意味で「霄」は訓読みで“そら”と読みます。

待てない時代

 わからない事があっても、パソコンと言わずにスマホで何でも検索して、すぐに調べられます。昔みたいに、次の日に書店か図書館で辞書や専門書にたどり着かなくても、ある程度の答えは求められる時代です。こうした「待てない時代」は答えが見つかるまでの時間が無いため、想像力が養えません。考えなくなってしまう分、思考が大きなブレーキ音を立てて止まってしまう感じです。

 気がついても、つかなくても…もう60才前です。東京オリンピックで湧く、2020年は還暦を前に自分を見つめているのか、来世の人となっているのかわかりません。戦後75年になる年で、現在未解決の数々の問題が解決していることを祈ります。終戦記念日近くになるとNHKスペシャルをはじめ、NHKの総合、Eテレ、BSプレミアムなどて特集されていた番組は72年前の戦争を風化させてはいけない精神を感じるとともに知らない、知らされてはいない真実がまだまだ、ある事を改めて認識します。731部隊の惨劇や満州開拓団の奇跡的な帰国のエピソードは深く胸に刻まれます。一方で半島不安定な情勢に心を痛めます。それぞれの大国の思惑もあるでしょうが、分断されている現実が解決されるのは遠い未来の事だと諦めるのは悲しいことだと思います。検索は待てても、解決は「待てない時代」なのです。

生野銀山②

 生野が鉱山採掘で賑わっていた時代、東京から赴任した鉱山職員の食卓のハヤシライスが人気になって、そのままこの地の名物になった様です。よって、訪問日のランチもハヤシライス、その中でも人気メニューのハヤシオムライスにしました。レストランの味というより、家庭の味で美味しく頂きました。生野にはハヤシライス部会なるものが、あって10箇所ものお店でハヤシライスが食べる事ができます。ここへは鉄道を利用するとタクシーかバスに乗らないといけません。往復バス利用は難しく、行きはタクシーに乗車しました。銀山の入口から国道429号線まで10分程歩くと神姫バスのバス停があり、JR生野駅の西口まで乗車しました。乗ったバスは前面に自転車のキャリーがあって、最近では珍しい最後部から乗車するタイプです。

 生野銀山のある朝来市は天空の城で有名な竹田城跡や立雲峡などの観光スポットがありますが、歴史部だったら1863年(文久3年)の生野の変の事跡を後世に伝えるために、代官所跡地に建立された生野義挙碑(いくのぎきょひ)は寄ったかもしれませんね。

生野銀山①

 日本の銀山と言えば、2007年(平成19年)に世界遺産登録となった石見銀山と同じ年に近代化産業遺産、および日本の地質百選に選定された生野銀山が突出して高い知名度の銀山です。生野銀山は生野鉱山関連遺構として、今年『播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道 ~資源大国日本の記憶をたどる73Kmの轍~』の日本遺産にも認定されています。石見銀山は2011年に訪問しましたが、生野銀山はこの夏休みのイベントとして先週、行ってきました。

 生野銀山は平安時代の開坑と伝えられていますが、本格的な採掘は戦国時代~江戸時代となります。明治になると日本初の政府直轄運営鉱山となり、鉱山長の朝倉盛明がフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力もあって、先進技術が導入されました。近代化が進められ、1889年(明治22年)には宮内省所管の皇室財産となり、それを裏付ける様に入口の門柱には菊の御門がありました。1896年(明治29年)には国内有数の鉱山として、三菱合資会社に払下げられています。その後、資源減少による鉱石の品質の悪化と、坑道延長が長くなり、採掘コストと危険性が増したことで1973年(昭和48年)に閉山し、翌年「史跡・生野銀山」となっています。