Monthly Archives: 8月 2010

パワースポット①

 最近は「パワースポット」がブームです。これは和製英語ですが、昨年あたりから広く一般に知られるようになり、ガイド本なども発行され、全国各地の社寺や景勝地に多くの若者が出かけているようです。「パワースポット」は風水学、気功学、スピリチュアリズム(心霊主義)などの立場から特別な力が得られる場所…という事らしいですが、科学的根拠はありません。少し前の新聞に人気の「パワースポット」として9箇所が紹介されていました。社寺にとって参拝者の増加は喜ばしい事ですが、一方で鳥居や本殿、本尊を素通りしてテレビ番組、書籍等で紹介された特定の場所のみに関心を向ける人々に対して困惑しているのも事実です。 %e5%a4%a9%e5%b2%a9%e7%ab%8b%e7%a5%9e%e7%a4%be

 そういう背景から私も一つ紹介します。奈良の柳生の里にある『天岩立神社と一刀石』です。天岩立神社(あまのいわたてじんじゃ)は本殿もなく、扉形に3つに割れた花崗岩の巨岩「前伏磐」、「前立磐」、「後立磐」の3石の周囲の樹間に注連縄を張り廻らし、これを御神体として祀っています。私が訪れたのは土曜の昼間でしたが、他の参拝客は誰もいませんでした。場所が良くわからずにこの写真の鳥居の前まで車で行きました。ここから、%e4%b8%80%e5%88%80%e7%9f%b3しばらく歩くと苔むした御神体の巨岩が現れます。よく見るとあたりは山全体に大きな岩肌がむき出して神秘的な物を感じ、正にこれこそ「パワースポット」だと呟いてしまいました。参拝して、昼尚暗い山中を100メートルほど進むと右の写真の『一刀石』が目に入ります。長さ 8メートル、幅7メートル、高さ2メートルの花崗岩ですが、中央付近で斜め一直線に割れているのです。おそらく、初めてこれを見た人は相当びっくりしたと思いますが、何か昔の怪獣映画のレーザー光線(ギャオス?)で切ったかの様な見事な切り口です。話によると、新陰流の祖で日本剣道の源流と言われる剣豪の上泉信綱(高弟の疋田豊五郎とも…)と試合をして敗れた柳生石舟斎宗厳が三年間この地で毎夜、天狗を相手に剣術修行をし、ある夜一刀のもとに天狗を切ったと思えば実はこの岩であったと伝えられています。柳生石舟斎は柳生新陰流の始祖ですね。この石舟斎の孫に列堂義仙がいます。劇画『子連れ狼』の敵役の柳生列堂のモデルになった人です。この列堂義仙は柳生宗矩(大和柳生藩初代藩主)の末子で柳生家の菩提寺である芳徳寺の開基で臨済宗の僧です。そういうことから歴史に名を残しましたが、歴史学などの学術的視点からの研究はあまりなく、その実態については明らかにされていません。『子連れ狼』では悪役のイメージが出来てしまいましたが、この石の名前の「一刀」と同じ名前の『拝一刀』と戦ったのは何かの因縁でしょうか…。

寺田屋

 京都伏見にある寺田屋はその信憑性についていろいろ物議をかもして、夢が壊れたりした人もいらっしゃる事と思いますが(後述)、今も歴史の生き証人(?)として存在しています。寺田屋事件は一般的に[]寺田屋騒動と[]寺田屋遭難があります。 []寺田屋騒動は1862月29日に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の権力者の島津久光によって鎮圧、粛清された事件の事です。鹿児島から藩兵千名を率いて上洛した久光は日本全国の尊王派の希望を背負っていました。しかし当時の久光にはまだ倒幕の意志はなくて、cimg0423s公武合体そのものが基本路線でありました。このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉らと共謀して関白九条尚忠京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、当時、薩摩藩の定宿である伏見の船宿寺田屋に集結しました。寺田屋はこのような謀議の集結場所としては絶好の隠れ家的存在だったのです。結果的にこの事件は薩摩藩の内部抗争として収束したのですが、皮肉な事に鎮圧に加わったものより、説得により生き残った尊王派の大山巌・西郷従道・篠原国幹・永山弥一郎などは後の明治政府で活躍しました。[]1866年3月8日の「寺田屋遭難」で知られる事件は、での薩長同盟の会談を斡旋後に薩摩人として宿泊していた坂本龍馬伏見奉行の林忠交肥後守捕り方が捕縛あるいは暗殺しようとした事件のことです。お龍(入浴中だったのは有名)の機転で龍馬は九死に一生を得ることができました。薩摩藩邸にかくまわれた龍馬はその後、大阪から船で鹿児島に脱出しました。しばらくの間は西郷隆盛の計らいにより薩摩領内の温泉で湯治などをしながら潜伏していました。この龍馬とお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行と言われています。 毎日曜日の大河ドラマ『龍馬伝』を視ていないのでこの「寺田屋遭難」のエピソードが劇中でどうだったのか知る由もないのですが(まだなら、新聞の番組欄の昨日8月29日の放映分のタイトルが薩長同盟ぜよでしたので龍馬の「寺田屋事件」は同盟締結の次の日なので、次週あたりではないでしょうか?)、現存する「寺田屋」について以下の通り説明をつけ加えておきます。

 現在寺田屋と言われている建物には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と思われるものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあります。そして、当時の建物であるかような説明がされていました。しかしながら、現在の寺田屋の建物は1905年に登記されていて、特に湯殿がある部分は1908年なのです。お龍はその2年前に病没していて、この後に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が浮上していました。一昨年の2008年に新聞、テレビでこの点が取り上げられて、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いで焼失しており、現在の建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に発表しました。

 こうした事で「せっかくの夢が壊れた!」、「ニセモノに感動した!」と残念がるのは当然ですが、これは第3の「寺田屋事件」としておおらかにとらえて、あくまでこの寺田屋は「寺田屋事件ゆかりの地」として思い出に残しておきましょう。(写真は2007年に寺田屋に行った時のものです。)

ライトアップ・プロムナードなら

  img_0287s古都奈良の夏の夜の五大行事のひとつに「ライトアップ・プロムナードなら」があります。(後の四つは奈良燈花会、東大寺万燈供養会、春日大社中元万燈籠、大文字送り火です。)開催期間は7月17日〜9月26日までです。ライトアップされる場所は東大寺(大仏殿、南大門)、猿沢池、興福寺五重塔、春日大社一の鳥居、奈良国立博物館本館、img_0327s仏教美術資料研究センター、浮見堂、平城宮朱雀門、大極殿、薬師寺です。今年は遷都1300年でこのライトアップの関連行事も多い様です。 私は8月28日(土)に軽く見に行きました。ブログのタイトルの〜まほろば日記〜からしても、8月中に奈良の夜の話題の提供は一つくらいは必要だと、少し焦っていました。ちょうどこの日は「バサラ祭り(1999年の夏にスタートした奈良で行われるストリートダンスを中心としたお祭りです。)」の演舞も猿沢池で特設会場で派手にやっていて、露店も軒を連ね、たくさんの人出でした。左の写真は興福寺の五重塔です。明治の廃仏毀釈の法難で25円(今の貨幣価値だと30万円位?)で売りに出されたのは有名な話ですね。国宝の五重塔は全国で9基(室内小塔2基は含まず)あり、この塔はその一つですし、現在は興福寺も世界遺産に登録されています。右の写真は奈良国立博物館です。本館(なら仏像館)は、1894年に完成した煉瓦造りの建物です。設計は、赤坂離宮(迎賓館)などを手がけた宮廷建築家の片山東熊(かたやまとうくま)によるもので、フレンチルネサンス高揚期の様式をとっています。特に玄関まわりの装飾は意匠的にすぐれ、明治中期の欧風建築として代表的なものです。1969年「旧帝国奈良博物館本館」として重要文化財に指定されています。毎年秋に開催される「正倉院展」の会場でもあります。

 

伊弉諾神宮

 CA3B0395伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)は淡路国一の宮です。祭神は日本神話の国産み・神産みに登場する伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀っています。私がお参りしたのは終戦記念日の8月15日で、家族が近くの多賀の浜海水浴場で海水浴をしている中、往復3㌔の炎天下の道のりを1.5時間かけて、正午の黙祷もしてのお参りとなりました。この神宮の創建は神代となっています。神代は「かみしろ」で神話の時代という意味です。日本神話では、神武天皇の在位される時までの時代(紀元前660年以前)のことを言います。

地蔵盆

 今週は大阪、奈良でも地蔵盆を見かけました。右の写真は奈良県の矢田山の自宅付近(犬の散歩道)の地蔵盆です。小さなお堂には薬師如来が祀ってあります。真言の「おんころころせんだりまとうきそわか」を唱えてお参りしています。24日には近所の方々が朝からたくさん、お供え物を持参して、集まっておられました。CA3B0434地蔵盆は、地蔵菩薩縁日(毎月24日)であって、またお盆の期間中でもある旧暦7月24日に向け、その前日の宵縁日を中心とした3日間の期間を指す場合が多い様です。地蔵盆は一般にはおに祀られている地蔵菩薩を対象としたものとは違い、道祖神信仰と結びついた路傍や街角(辻)のお地蔵さんが対象となっています。旧暦の7月24日はお盆の期間中で、それにちなんで地蔵盆と呼ばれるようになりました。現代では、参加する地域の人々の仕事や都合に合わせ、多少日程をずらして土曜日、日曜日に実施するところも増えています。近年では8月23、24日に行われるのが一般的とも言われています。お地蔵さんの首に赤い涎(よだれ)掛けが付けられているのは、お地蔵さんが子供の守護神であることと関係があります。また、赤色は「ほうそう除け」とする地域があるそうです。昔はほうそうなどの伝染病にかかると子供がすぐ死んだりしました。幼い子供が親より先にこの世を去ってしまうと、親を悲しませ、親孝行の功徳も積んでいないことから、「三途の川」を渡る事が叶わず、「賽の河原」で鬼にいじめられて、石の塔婆を永遠に作らなければならないとされ、地蔵菩薩が「賽の河原」に足を運び、鬼から子供達を守って、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏出来る様に道を開いていくと語り伝えられています。このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する有り難い菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となっています。

ひつまぶし

 先週、名古屋地区に行く機会があって、ランチは「ひつまぶし」を食べました。「ひつまぶし」とは写真の様な鰻料理の一種です。鰻の蒲焼を細かく刻んで、お櫃に入れた白飯の上に乗せて出され、一般的には三種(?そのまま?わさびなどの薬味を入れる?お茶か出汁でお茶漬け風に)の異なる食べ方で提供されます。諸説ある中で、明治時代から大正にかけて鰻の蒲焼出前が多くて、大人数で取り分けて食べられる様に細かく切って出したのが始まりといCA3B0426言われ、同時に運搬の際に陶器の食器が割れないようにお櫃に代えて、ご飯に鰻をまぶして出したことがこの「ひつまぶし」という名前の由来であるらしいです。また関西では鰻飯を意味する「まむし」という語から「ひつまむし」とも呼ばれています。名古屋地区では両方の呼び名がある様です。

 私もこの「ひつまぶし」はある方のお陰で何度も食べる機会がありました。そのうちに奈良工場の近くに「うなぎ屋さん」もできて、ちやんとメニューにもありました。ただ、大阪や京都の老舗と言われるお店にはまったくこのメニューがないのが残念でもあり、少し嬉しくも思います。

 

神谷神社

 神谷神社(かんだにじんじゃ)は香川県坂出市にあります。高松市から坂出市にまたがる大崎山、峰山(黒峰)、北峰、青峰、白峰山、太平山、猪尻山の連峰である五色台の西の谷あいの奥まった所に鎮座する神社です。祭神は火結命(ほむすびのみこと)、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)に春日四神を祀っています。古来、神々が集い遊ぶ谷として『神谷』と呼ばれていて、裏山に磐座(いわくら)がありまして、その肇祀は古く、812年に阿刀大足(あとのおおたり/空海の母方の伯父)が社殿を造営したと伝えられています。本殿は1219年の建立で、桧皮葺の三間社流造では最古のものです。鎌倉初期の代表的建築物として国宝に指定されています。本殿棟木には「正一位神谷大明神」の墨書があるほか,木造随身立像(重要文化財)、舞楽面,法楽連歌など鎌倉・室町時代の文化財が多数収蔵されています。私が訪問したのは8月14日でした。社務所はありましたが、不在でご朱印等はもらえませんでした。神谷神社

 この近くには非運の死を遂げた崇徳上皇を祀ってある高家神社があり、周辺にもゆかりの地があります。金刀比羅宮もそうです。こういった場所は京都、奈良を中心に全国にあります。日本の歴史を語る上では避けて通れない事でもあり、一般的には御霊信仰で括られています。御霊信仰とは不幸な死に方や非業の死を遂げた人の霊が、祟(たた)り、災いをもたらすという信仰自体であり、またそれをなだめ、抑える神を祀(まつ)る信仰の事です。この御霊信仰については軽々に書けないのでもう少し勉強をしてからにします。

鎌倉

 鎌倉も古寺と神社の歴史の街であり、文学者や芸術家にも好まれた文化的都市です。また、臨済宗・浄土宗・日蓮宗などの鎌倉新仏教が興隆し、全国各地に広まって、その後の日本人の宗教感や方向性に大きな影響を与えてきたとも言われています。東京や横浜の大都市から比較的近い観光地ですから訪れる人も多く、休日ともなるとアクセスの江ノ電も大混雑します。私は6月にチラッと寄りました。JRの北鎌倉で下車をし、すぐ近くの円覚寺に神奈川県唯一の国宝の建造物「舎利殿」を見に行きました。が、残念ながら、拝観はしていなくて、お寺の方にたずねてみると、この「舎利殿」は年に二回、正月三が日と、11月の文化の日を含めた三日間行われる「宝物風入」の時に併せて公開されるだけとの事でした。IMG_0190s

 次は鎌倉五山の一位の建長寺の前を通って(半日くらいのつもりでしたので建長寺も次回、ゆっくりお参りしようと)、鶴岡八幡宮へ参拝、鎌倉駅前からバスに乗って、これも神奈川県唯一の国宝の仏像の大仏のある高徳院に駆け足で行きました。大仏の後は江ノ電で江ノ島駅へ行き、日蓮聖人ゆかりの龍口寺に寄りました。写真の様にちょうど併用軌道となっている路線です。この道路を鎌倉寄りの腰越駅(ホームが短くて車両が民家の横にまではみ出て有名な)に少し戻ると神奈川のB級グルメの「サンマーメン」等の店があります。

 建長寺の前に円応寺という臨済宗建長寺派の寺院があります。本尊は閻魔王です。木造初江王坐像と倶生神坐像(2体)はこの円応寺の所蔵ですが通常、鶴岡八幡宮横の鎌倉国宝館に委託されています。その坐像が昨日の話題の「仏像修理100年」で展示されています。1923年の関東大震災の時に、被災した多くの仏像の修理に奈良から派遣された美術院の職員が行っております。

百年一昔

 IMG_0272s 昨日、奈良国立博物館の東新館での特別展「仏像修理100年」に行ってきました。開催は9月26日までですが、22日は「夫婦の日」として、夫婦で行くと半額です。なら仏像館(本館)での「至宝の仏像」とセットで二人で1,000円は得した気分です。東大寺南大門の金剛力士立像(国宝/1203年完成)の修理の解説もありました。東には口を閉じた「吽形」で、西が口を開けた「阿形」です。保存修理が行われた昭和63年〜平成4年で、785年ぶりの他に類を見ない大規模なものでした。修理者延べ人数は1万1000人とも言われています。二体の金剛力士像は作風が歴然と違うらしいです。また、通常と「吽形」、「阿形」の配置が逆という事も改めて知りました。こうした、知識を得て実物を見に南大門を再訪しなくてはと思いました。歴史は知れば知るほど、深き淵、高き峰です。東京方面の方には9月20日(月)まで開催している三井記念美術館(日本橋)の特別展「奈良の古寺と仏像」はいかがでしょうか?中でも釈迦・阿弥陀・宝生(ほうしょう)・阿閦(あしゅく)如来と称される四体の如来坐像「塔本四仏像」は西大寺創建当初(765年)、東塔の東西南北にまつられていたものと言われています。西大寺と奈良国立博物館と東京国立博物館の三箇所にそれぞれ分けて保管されているため、4体が同時に展示されるのは、約20ぶりです。IMG_0275s

 奈良国立博物館の北側に「夢風ひろば」という地元奈良をはじめとする飲食・物販12店舗からなる総合的ないこいの施設があります。その中に鉄道模型のテーマ・レストランがあります。左が軌間9㍉のNゲージ、右が軌間16.5ミリのHOゲージ(鉄道模型の2大サイズですね。)のお店です。私はHOの方に入りました。いずれも自分で運転できる席があります。最近の鉄道ブームでこうしたジオラマのあるお店も数が増え、新聞やテレビなどでもよく紹介されています。 今年は関西の近鉄日本鉄道、京阪電気鉄道、阪急電鉄、嵐電などが開業100周年です。関西はかつて私鉄王国と呼ばれていました。今はJR西日本のアーバンネットワーク作戦に負けているのが現実でしょう。東西線やおおさか東線の開通、大阪環状線からの各方面の直通快速の運転などの例をみてもJRの「一人勝ち」感は否めません。私感で恐縮ですが、阪急電鉄の上品さや、車両の統一性、京阪電鉄の2階建特急などは関西私鉄の素晴らしさだと思います。阪急電鉄の車両は大阪の地下鉄、堺筋線に相互乗入れしています。当初は南海電鉄が乗入れる話もあったそうですが。堺筋線に乗る時に阪急電鉄の車両が来ると「ラッキー」と感じる人は少なくないと思います

善通寺

 善通寺善通寺は香川県善通寺市にある真言宗善通寺派の総本山で本尊は薬師如来、四国八十八箇所霊場の第七十五番札所です。弘法大師の誕生の地として知られ、807年から建立をし、6年の歳月を経て落慶した寺院です。唐の青龍寺を模して建てられた真言密教の根本道場です。名前の由来は弘法大師の父の名前である佐伯善通から採られています。

 私たち家族一行は本来、金刀比羅宮にお参りに行く予定でしたが御本宮まで石段785段、奥社まではさらに583段に恐れをなして善通寺に行きました。妻、次男、長女の3人が弘法大師の御縁日の21日生れという究極の「こじつけ」まで飛び出しての変更でした。弘法大師が唐から持ち帰ったとされる金銅錫杖頭(こんどう しゃくじょうとう)の寺宝は国宝で原則非公開ですが、今年の春〜初夏に平城遷都1300年の記念イベントの一つとして奈良国立博物館で開催された「大遣唐使展」に出陳されていました。残念ながら、見には行けなっかたのですが、現在開催中の「仏像修理100年」は時間をつくって是非とも行きたいと思っています。 善通寺大楠

 善通寺には大楠が2本あります。こちらは五社明神の大楠です。両方とも樹齢千数百年の古木です。残念ながらもう一本の大楠は見逃しています。すぐ近くにあったらしいのですが。まったく記憶になく、恥ずかしい限りです。「ぼーっ」としていたとしか言いようがありません。しかし、前向きに考えると「また、見に来なさい」という弘法大師のお導きなんでしょう

 善通寺でも、その塔頭の華蔵院でも、また、本山寺でも御朱印をいただきましたが、どうやら八十八箇所霊場では御朱印をいただくときに「日付」は書かれない様です。(三ヶ所とも8月14日にお参りしました。)